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◇鏡―形態

私はふくらみのある形態、たとえば、花の蕾(つぼみ)や種、繭、妊婦のおなかなどにエネルギーを感じている。さしあたり、卵形はおそらくあらゆる場に調和、順応する。しかし同時に、自然界に出現したそれは、一種不可思議な情景をかもし出す。そのアンバランスな境界に、観者は多様なイマジネーションを想起できる。繭であり、隕石であり、砲弾であり、古代の甕棺のようであり、そのまま卵である。そして、観者のイマジネーションもまた場の性格や意味、また観者自身の経験に左右され、決定づけられる。そもそも「紡錘」という抽象的かつ象徴的な形態は、さまざまな副次的な思考がともなう。場や観者との関係において、紡錘は思考させる「装置」となり、社会の「鏡」ともなりうる。

◇鏡-表層

野ざらしにされた物体の皮相は、自然界の摂理を反映して相応の変化をきたす。雨や日照、バクテリアのはたらきなど自然界のエネルギーは、私の制作には欠かせない。小麦粉をバーナーであぶることによってできた殻状の表面は、風化の第一段階では黴に被われさまざまな色相を見せる。次第に表皮は剥がれ落ち、日光の漂泊作用も手伝って灰褐色に傾いていく。ここに「皮層は自然を映しだす鏡」であるという概念が生じる。私はそもそも絵画が出自であり、それゆえ表層へのこだわりは強い。「表層」という限定された領域は、無限の広がりを内包する。ましてや、自然界のエネルギーを直接受けて化をくり返す物体の表層は、自然界の摂理をリアルに映しだす鏡であり、そこには濃縮されたコスモスが立ちあらわれるのである。

◇私の創作を巡る四つの相(風化―再生の試み)

1 浄化

オブジェに巻かれた紐の美しいラインは再び和紙につつまれ隠される。そしてその和紙の上に小麦粉のペーストをたっぷり塗り込め、バーナーで焼き焦がし黒い皮膚をつくる。下層を極力焦がさないよう、覆った和紙一枚のみに火を入れるという緊張した作業である。焼いてはさらに小麦ペーストを薄く重ね、さらに焼く。自然な風合いになるまでこれをくり返す。火の力で清められた炭の黒。すべてを無に還す精神の極み。そこに美をみいだした人は多い。火はすべてを還元する。実体がなく、それゆえに形象としてあらわれる火のかたち。岡本太郎は縄文土器に火の形象をみいだし、不動明王の怒りの形相を炎になぞらえた。私もまた火の力を借りてオブジェの表層を一度は無に帰す。それはまた私自身の精神の浄化でもある。

2 結界

円環とは非常にマクロな視座である。作為をもって表現できるものではない。仮に表現できたとしてもそれは単なる表面的なイメージに終わってしまう。私はもっと直接的でリアルな表像(皮膚)を追究していきたい。それには自身がまず積極的に自然界に感性の脈をのばしていかなくてはならない。そのなかで、微生物のはたらき、特に黴などの菌類の存在は不可欠なものになった。私にとって円環という大きな世界を表現していくためには、その入り口で、菌類や微生物などミクロな世界に着目していくことが必要となった。そして、そのミクロな世界を結ぶ、その仕掛けを与えること、仕組むこと、これが主要な創作活動になっている。

3 回帰

菌類など、微生物のはたらきを受けて黴に被われた皮膚は、雨や露、日照、また風などを受け崩壊の一途を辿る。自然の姿である。雨に濡れて妖しく艶めかしい皮膚は、日光を浴び、干上がり、めくれ、まるで瘡蓋のような痛々しい皮膚へ豹変する。それがくり返されながら、次第に和紙のしなやかさを失い、重力の法則にしたがって、または風に運ばれ、地面に落ちていく。はかなさに美をみいだせるのは日本人特有の美意識によるものである。私の興味の対象は、表層でくり広げられる風化現象そのものである。物はいずれ風化し、朽ちはてるという自然界の摂理をオブジェの表層をフィールドにして投影させているにすぎない。しかし表層は無限な広がりをもち、自然界のエネルギーを可視化する鏡となる。

4 生成(再生)

柿渋は、渋柿に豊富に含まれる渋(タンニン)を発酵、熟成させたものである。そもそも‘渋’とは植物に広く含まれ、自らの身を害虫から守るためにそれらが生み出した知恵であるかのようだ。それを日常生活に活かし、取りこんでいこうとする発想は、自然界に鋭い琴線をもつ日本人ならではのもの。私は風化を追求するなかで、さまざまなエネルギー、例えば雨、日光、菌類のはたらきなどを積極的に作用させて変化を導くが、柿渋は風化現象とはまったく逆の特性をみせつける。耐水性がまし雨に打たれ強く、日光によって強固な皮膜が形成され、また優れた防カビ効果を発揮する。つまり、同じ条件下でオブジェを自然界に放ったとき、その表層変化は対称的に傾いていくのである。私はこの‘渋’の力をかりて生成(再生)を試みる。

◇エネルギー

「エネルギー」という概念そのものは、抽象曖昧である。私は膨らむ形、膨らみのあるものにエネルギーを感じる。張りつめ、充満し、緊張感が漂う。花は美しいが、むしろ開花前の蕾のほうがよほど美しい。そのように、蕾であったり、種であ たり、繭や蛹であったり、球形の石ころであったりする。自然界はエネルギーに満ちている。かのダヴィンチも根元なるそれらに着目した。「水」のデッサンは有名である。古代人の火に対する神聖観や縄文土器の火の形象。すして根元的なるものに対するプリミティブな感性は今日でもまったく変わることなくエネルギッシュな作品のなかには普遍的に踏襲されている。私はエネルギーを作品に直接反映させるため、火、水、土、風、光・菌類、細菌類といった根元なるものをかかわらせていく。根元への関与、それが私のスタンスである。風化シリーズに関していえばアトリエでの作業はいわば創作の前哨であり、その後作品を野外へ放置し自然界へ出すことで様々なバリエーションを展開させる。しかし、私は受動的なスタンスに陥るのではなく、積極的に自然界にかかわり、作品の表層をコントロールしていく。「場」のもつエネルギーも重要である。「漂流するもの05-06プロジェクト」では、高原(朝霧高原)や海岸線(大磯海岸)という場にも作品を進出させた。朝霧は文字通り霧が多くかかり、黴にとっては格好の場であることもさることながら、富士の裾野の溶岩地形ゆえのダイナミズムに富んだエネルギー地形を形成している。対して海は、強い日照りがオブジェの皮相に与える影響が朝霧とは対照的でありながら、そこは生命が誕生し、生命を宿す舞台でもあり、原初性に富んでいる。作品と場がぶつかり合い、新しい意味・エネルギーが生成されるのである。そのことは、「円環―命脈09-10」プロジェクトにおいても主要なテーマとなった。

◇円環

1 創作から風化、そして再生へ

私の表層を巡る取り組みはそのまま円環の一つの縮図である。風化を予見しながら「仕込む」オブジェの骨格は最終的に火で清められ、黒い殻を身につける。そしてオブジェは自然界に投げだされ、摂理にみちびかれ風化の一途をたどっていく。黴に包囲され、皮がむけ、はがれ落ち、制作工程を逆行するかたちで下層が露出していく。そこでは日光の漂白作用も手伝って白化し、豊かな彩りも消えうせ、モノトーンの均質的な表情に変化していく。この段階で風化は終焉を迎える。次に柿渋の力で皮膜を形成させながら、最終的にはもとの黒い殻に戻っていく。これら一連の表層の出来事に、円環性を見いだすのである。〈創作→風化→再生〉の円環性は、同時に〈黒→白→黒〉という色相の循環でもある。

2 場を円環で結ぶ

「漂流するもの05-06プロジェクト」では甲府(山梨)を帰着点として朝霧(静岡)、大磯(神奈川)、千駄木(東京)、名栗(埼玉)、三富(山梨)を巡回するかたちで実施した。これらの場所は、ある係数のもとに楕円で結ばれている。それぞれの場所は互いに関係性はないが、一定の秩序でむすばれることで意味が発生する。そのプロジェクトでは楕円というかたちを試みたが、円形で結ばれることはさして重要ではない。例えば川の流れを考えてみる。地形により定まった水の軌道は、重力の法則にしたがい海に注がれる。海に吸収された水は空へ蒸散し雲となり、雨となって地表に降り注ぐ。森に蓄えられた水は地表に湧きだし、川を伝って再び海へと運ばれる。水の運動は円環の象徴である。2009年から1年間をかけ本州のフォッサマグナエリア1000㎞を往還した「円環―命脈」は、〈森―川―海〉、さらに〈源流―河口〉という水脈を繭玉とともに旅しながら場を円環で結ぶことを一つの主眼にしたプロジェクトである。

3 身体性と円環

「身体」という概念はつねに制作の根底に敷かれている。簡単にいえば体で思考し、身体を駆使して創作するということ。したがって、プロジェクトでは「交渉」自体もコンセプトに位置づけられる。一見野ざらしにしていく風化の試みと身体性は矛盾するかのようであるが、私は風化のイメージをコントロールするために「仕組む」ことを行い、アトリエのなかで黴の温床をつくり人為的に風化を試みることもある。また、野外へ放置した際には、現地へ体を運び現場で作業もする。養分を吹きかけたり、ひっくり返してみたり、表皮を剥いだりもする。つまり、自身の身体を能動的にかかわらせていく。さらに「再生」のプロセスはいうまでもない。しかし、理想的な表像を求め仕掛けはしても、自然界は従順に応答してくれない。時と場所、気候等の条件に左右され、千差万別である。特に黴の表情はむずかしい。もっともすべてをコントロールできるわけもなく、またしようとも思わない。逆に意表をつかれ、今までに出合ったことのないような美しい皮層に変貌することもある。いずれにせよ、こちらが仕掛けたことは、自然界というフィルターを通しリアクションとして還ってくる。その表像を獲得し次の手だてを講ずる。そのくり返しである。私は風化の現場、再生の現場に能動的に立ちあい、自然界のインスピレーションを得ながら、あるいは対話しながら、自らの身体と感性を連動させて物体に対峙していく。それは円環の衝動である。

4 自然空間と画廊空間

画廊や美術館は閉ざされた空間ではなく、ある意味開かれた空間である。時空間の連続するリアルな自然界の空間に対し、切りとられた人工的でフラットなホワイトキューヴは、逆に観者のイマジネーションが外的な要因に束縛されず、自在に交差する開かれた空間となり得る。私は野外展示と画廊展示とで意識の差を付ける。野外では時間の経過のなかで進行するリアルな表層を観測し記録をとるようにするのに対し画廊で発表するときは、断片的な観測記録を、オブジェのレアな皮膚をそのままにして展観する。つまり、野外で風化させた時間軸の異なる複数のオブジェを、一堂に並列させて展観することで、逆に時間の集積をかもし出していく。2005年に東京のexhibit LIVE&MORISで開催した個展「円環へ-風化と再生」では、12体の紡錘形オブジェを天井から吊すインスタレーションを行った。12体は、風化に出す前の黒く焦げた殻に包まれたものや、風化の過程でさまざまに発色した黴の皮相(青・白・黒・赤)をもつもの、さらに半年以上野外に放置し漂白された状態のものや、それに薄い和紙を張り柿渋で人為的にコーティング(再生)していったものまでさまざまである。そして、風化から再生にいたる断片的な皮相をもつオブジェを、時間順位性を無視してランダムに配置した。これにより、観者は風化の情景を想起しながら、ランダムに配置されたそれらオブジェを整合的に結びつけ、イマジネーションの世界で円環性を感得できるのである。